Bible
「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」 フィリピの信徒への手紙 4:12
神様から遣わされた
大使徒であったパウロは、
聖書の中で様々な艱難苦難、
窮乏、貧困、迫害にあった
と記されていて、
普通なら誰でも絶望し、
自殺してしまうような日々を
送っていることが分かります。
ですが、聖書の中にある
パウロが書いた手紙を読んでいると、
なぜかパウロの力強い生きる希望と、
喜び、神様への感謝の気持ち、
何よりも人間への深い愛が
強く伝わってきます。
何千年前の人が
書いた手紙なのに、
そのパウロの深い愛が
心に伝わってきて、
涙が溢れます。
パウロが、どんな状況の時も
とにかく神様を信じ抜く気持ちと、
多くの人から迫害されている
辛い状況の中でも、
神様への絶えず溢れ出る
感謝の気持ちで心が
満たされていることが、
文章から自然と伝わってきます。
パウロは、
自分が富んでいるときも、
貧しい時も、
同じような希望と喜びの中で
生きられるようになったのだ
と言っています。
それはつまり、
自分が豊かであろうと貧しかろうと
楽だろうと困難だろうと、
周りの状況はなんら関係なく、
常に心を喜びで満たす方法を
学んだということです。
私達人間にとって、
どんな時も喜びを感じられる
ということほど幸いな
ことはありません。
神様を信じて歩む人は、
神様を信じていない人が
不思議に思うほど
どんな状況の中でも
喜びと感謝に満ち溢れて
イキイキと生きることができます。
時に、神様を信じていない人の方が
あらゆる物に満たされていて、
神様を信じる人が欠乏しているのに、
なぜか神様を信じている人の方が
天国で生きているかのように
幸せそうに見えて、
神様を信じることのできない人は
驚き怪しむしかありません。
神様の愛を受けると、
それ以上に自分の心を
満たせるものがないと
身をもって分かるので、
もはや物が豊かにあろうとなかろうと
関係なくなってしまうのです。
パウロは常に神様の深い愛を
毎日感じながら生きていたので、
自分が豊かであろうと貧困であろうと、
どうでもいいと思って、
むしろ神様の愛を感じ続けるために
生き抜いたのです。
神様の愛を日々感じて生きる人は、
どんなに辛い状況に陥ろうとも、
心を喜びで満たすことができるのです。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」コリントの信徒への手紙一 10:13
時に自分の身の上に、
予想もしないような困難や
失敗や問題がふりかかると、
人は簡単にその道を諦めようとし、
なぜそのような問題が起きたのか
真剣に向き合うことができません。
何が原因なのか
答えを必死で探すことを避けて、
自分を見つめ直そうと
もがくことができません。
しまいに、
人によってはあまりの苦しみに
頭がきちんと回転しなくなり、
思考が止まって、
まともに仕事ができなくなったり、
話に集中できなくなっていって、
生活にまで支障が
出てくるようになります。
そうして
人は幸せになろうとすることを
次第に諦めて、
自ら命を絶とうとしてしまいます。
なぜなら自分の求める答えが
一向に見つからず、
なぜ自分がこんなに
苦しみを受けているのか、
考えても考えても
答えが出ないからです。
この先の人生に絶望して、
生きる希望を失ってしまいます。
私達は、答えがなければ
問題が一生解けないので、
いつまでもその問題を解ききれず、
疑問ばかりが頭に浮かび、
いずれは考えることさえ嫌になって
人生を諦めてしまうのです。
ですが神様に頼るなら、
あなたを創ってくださった神様が
あなたの苦しみ全ての原因を
教えてくださって、
答えを必ず与えてくださいます。
必ず乗り越えられるように、
救いの手を差し伸べてくださいます。
心に強力な光を注いでくださいます。
今にも崖から飛び降りそうな
あなたの手を強く引いて、
「最後まで諦めず私のもとに来なさい。」
とおっしゃってくださいます。
“神様は乗り越えられない
試練は与えない”
とよく言われますが
まさにその通りなのです。
神様に出会えたなら、
私達の前には常に希望だけが残るのです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」マタイによる福音書 6:1
私達人間は、
人の目をとても気にしてしまう
生き物です。
人からよく思われたい、
嫌われたくないと思って、
人前で良い行いを見せようとします。
ですが、
神様が望まれる善い行いとは、
人間から見た視点と
全く異なっています。
人間から見れば善い行いであっても、
神様から見ると罪にさえ
あたることがあります。
神様の考えと人間の考えは
それこそ天と地ほどにも違うので、
私達の考える範囲の善など、
神様からすれば悪にさえ
見えるのです。
神様が望まれる善は、
本当に次元の高いものです。
神様は、人の命を
どこまでも愛しています。
この世の人間達の命を愛し、
また絶望から抜け出して
幸せに生きてほしいと
どこまでも願っています。
ですから
神様が認める正義や善は、
人の人生をどこまでも幸福へと
導くことができたかどうか、
人を絶望から救い出し
希望に満ち溢れる人生へと導いて、
今にも消えそうな命を
救ったかどうか、
これが神様が求める善の基準なのです。
ただ人前で
転んだところを助けてあげたり、
荷物を持ってあげたり、
そのようなことで満足するなら
それは人に自分が認められよう
として行ったこととして、
神様の前では何のポイントにも
なりません。
小さな善で満足するなら、
それは自分に酔いしれているに
過ぎません。
神様は、
真に人を命がけで救う人を見て
義と認めてくださいます。
それは単に肉的に命を救う
ということではなく、
暗闇の中で希望もなく
毎日を生きて精神が死んで
しまっている人に、
一日を喜びで生きられるようにと
どこまでも光を注いで、
自分の個性才能をいかして光を放ち、
自分の人生つまり命をかけて
人に希望を与えて救っていく
ことを言っています。
そのために、
人前で小さな自己満足にすぎない
偽善を施すなとおっしゃって、
人に見られていない隠れた場所で
命がけの努力をする人こそ
本物の義人だ、
と神様はおっしゃるのです。
人から認められようとする
次元の低い偽善者になることなく、
神の基準で人を救おうとする
本物の義人へと成長することを、
神様はいつも願っています。
「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」コリントの信徒への手紙二 13:11
この世の人々は、
何か自分の思い通りに
ならないことがあったり
自分の都合の悪いことがあったりすると、
それを誰かのせいにしたり
環境のせいにして、
自分の立場を守り、
自分は悪くないと考えてしまいます。
表面上では仲良くしているようで、
何か自分にとって気に入らないことがあれば
すぐに相手に対して不満がつのり
相手の誹謗中傷を始めます。
誰もが
自分の生きてきた物差しで
全てを図ろうとしますし、
それこそ誰1人として
同じ人生を生きている人はいないので、
当然70億人いるなら
70億人それぞれの物差しで
お互いを図り合うことになります。
その中で
より近い価値観や、同じ境遇、
似た人生を生きてきたもの同士で、
なんとか分かり合おうとして
無理矢理、1人ではない、
孤独ではない、
と言い聞かせています。
これではいつか限界がきて、
分かり合えていたと思ったら
相手の悪い部分が
だんだん気になってきて、
やっぱりこういう人だったんだ、
思っていた人と違う、
と思うようになるのです。
相手に期待した自分に落ち込み
また自分の期待に応えてくれない
相手をさらに恨むようになったりします。
人間に期待した分
損をしてしまうのです。
人は本来コロコロと
考えが変わる生き物です。
1日のうちに
喜んだと思えば落胆したり、
10も20も考えが変わるものです。
そのような心の移り変わりの
激しい人間同士が、
どうして簡単に心を一つに
することができるでしょうか。
2人で心を一つにできても、
100人、1000人と心を一つにすることは、
人間から見ると到底不可能に思えます。
ですが、神様という
たった一人の人の考えを学んで
誰もが神様の愛を学んで、
神様という完璧な人格を持った人に
近づく努力をするなら、
たちまち神様に近づこうと
している者同士で心が一瞬で一つになり、
神様と同じ価値観で
心から愛し合えるので、
その人達の間では常に平和があり、
平安があり、
喜びがあり、
感謝に満ち溢れ、
感動で心が満たされるようになるのです。
お互いのことを尊重して、
助け合い、補いあって
手を取り合う尊い日々を
過ごすことができます。
神様に愛される人同士が集まるなら、
そこがまさに天国のような
空気で満たされるようになるのです。
生きながらにして天国にいる
喜びを味わえるのです。
「イエスは言われた。『〝心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。〝これが最も重要な第一の掟である。』 」マタイによる福音書 22:38
私たち人間は、
神様から見れば
新婦の立場になります。
神様が全人生をかけて
創造し、導き、愛し抜いてくださる、
神様にとって
心が痛むほど愛おしい存在なのです。
聖書の旧約時代には
神様が人間にとっての主人として、
また新約時代は人間にとっての親として、
人間に接していることが分かります。
恋人同士の関係よりも、
親子の関係の方が距離が
どうしても遠くなります。
まして、主人と奴隷の関係では、
あまりに格差がありすぎて、
うかつに近づくこともできません。
神様は、
旧約時代、新約時代と
人間の次元を上げて、
神様と人間がより近い
関係になれるように、
イエス様など様々な中心人物を通して
神様の深い愛を人類に伝えて、
人間との距離を縮めてきて
くださいました。
そして現代、神様は
人類と親子の関係ではなく、
最も近い関係である
恋人同士のような関係へと
私たちを近づけようとして
くださっています。
私たちが
神様の新婦になれるように
神様を第一に愛して生きようとするなら、
神様はそのような人を自分の
真の恋人として認めてくださって、
神様が持っている全ての力を振り絞って
助け、導き、守り、
極限的に愛してくださいます。
そのような神様に愛される
新婦になれることほど、
この世に産まれて幸せなことはありません。
私たち人間は、
「愛されたい」生き物です。
自らも愛し、また愛されることでしか、
心が真に満足することはありません。
突き詰めてしまえば、
誰もが愛を求めて生きているのです。
そして、私たちの心を完全に
満たすことのできる愛を持っているのは、
私たち人間を創り、
人間とどこまでも永遠に
愛し合いたいと願っている
神様しかいません。
神様の新婦になれる時代に
生まれた私たち1人1人が、
神様に出会い、
神様に愛され、
また神様を心から愛して、
神様と愛し合うことの喜びを
心に感じることができる
天国のような毎日を
過ごすことができることを、
心から祈っています。
「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」マルコによる福音書 10:42
最も強く、最も力のある者が、
人々の上に立ち、人々を支配するのが
この世の現実ですが、
一体どれほどの人がこの世界の
現状に満足をしているのでしょうか。
どれほどの人が、
自分の上に立っている権力者や
支配者を認め、信頼し、
付き従おうと思えているのでしょうか。
私の周りでは、
自分の国を導いている政治家に
興味を示す人すらいません。
つまり、
それだけ政治家に対して誰も彼もが、
もはやどうでもいいと思っているのです。
そして、
その支配者達が変わることがなければ
世の中も変わることはないと
心のどこかで諦めている人が
大半ではないでしょうか。
ですが、神様がつくる世界では、
高慢な者や、
自己主張をする者、
人を見下すような者が
支配者として上に立つことは
決してありません。
神様はどこまでも公平な方で、
不条理のない世界にいらっしゃいます。
ですから今、
悪魔が支配している世の中が
神様が支配する世の中に変わるなら、
私たちの上に立つ支配者を
神様が選ぶことになるので、
どこまでも公平な目を持ち、
どこまでも謙遜で、
正義感と人への愛に満ち溢れた、
神様と同じ高い知能を持った人が
私たちを導いてくださるようになります。
そうすると、
この世の中は神様の視点から見て
悪がきちんと裁かれて
義が満ち溢れる世界へと
変わっていきます。
私たちが悪なる支配者が
滅びることを願い、
善なる支配者が立てられるように
神様に祈り求めるならば、
必ずこの地に平和が訪れます。
信じて祈る人の祈りこそ、
神様のもとに届き、
必ず叶えられるのです。
「だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」コリントの信徒への手紙一 10:24
現代は、
誰もが自分の利益を追い求め、
自分さえ良ければそれでいい
という考えで毎日を過ごしている人
ばかりで溢れています。
これが当たり前のように
なってしまっているので、
自分のことを優先にすることの
何が悪いのか、
みんなやっていることじゃないか、
人間なんてこんなものじゃないかと
誰もが考えています。
神様の裁きが加速する現代は、
これからもっと多くの人々が
人に対して悪意を抱き、
心がすさみ、
自分が相手よりも得をしたいと願って、
ひたすら愛のない世の中へと
落ち込んでいくことになります。
自分のことばかりを考えて、
相手のために何かを
やってあげようとも考えず、
自分を犠牲にしてでも
誰かを助けたいと考えるような
義人がいない世の中を神様がご覧になって、
そんな1ミリも愛のない人間たちを、
これから本当に様々な災いで打ち、
混沌とした世の中へと導くようになるのです。
神様は、
自分中心で、
相手の気持ちも考えず、
自分のことばかりを主張する人を
とても嫌います。
逆に、
自分の感情さえ捨てて
誰かの役に立ちたいと心から願って、
そのために神様に力をもらおうと
もがいて生きる隣人愛に溢れた人を、
どこまでも気にしてくださり
また実際にその人を気に入って、
その人のやることなすこと
全てが上手く運ぶように
運を与えてくださって、
力強く導いてくださるようになります。
このような愛のない、
冷たく暗い世界の中で、
一際光輝く天使のような存在へと
成長させてくださるのです。
神様に気にかけてもらえる
清い心を持って、
自分の利益のためではなく、
相手の利益を求めて生きる
隣人愛に溢れた人こそ、
真に人間として価値ある人だと
神様が認めてくださるでしょう。
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」使徒言行録 20:35
この世の中の価値観では、
何かを多く得た時や、
何かを多く与えられた時が
幸せだと言われます。
ですから多くの人が自分の人生を
何かを得るため、
得をするために生きています。
お金を沢山稼ぐため、
自分の得意分野で成功するため、
結婚するため、
欲しい物を手に入れるため、
その他様々な欲望を心に
抱いて生きています。
ですが、誰もが思ったように
自分の望むものを手に入れられず、
むしろ努力しても努力しても損をしたりして
日々落胆します。それでも、
何かを得ることでしか
喜びを感じられないので、
いつか必ず自分の求めているものが
手に入ると信じて、また富や成功や恋人を
追い求めようとします。
今の世の中は、誰もがこのような
袋小路の中にぶつかって、いつまでも
心から満足いく生活を送ることができません。
例えば、この世で成功を収めて
すでに沢山の富や名声を得ているのに、
自分よりもっとお金を稼いでいる人が
いるのを見ると、心の中で嫉妬し、
闘争心を燃やし、1億円稼いだら、さらに
2億3億と稼ごうとするようになります。
この世の物を求め続けるなら、
永遠に終わりがないことに
誰でも心の中で気づくようになるはずです。
いつになったら、またどうなったら
自分が真に満足できるのか分からず、
絶望するしかありません。
ですからイエス様は、
いつまでも永遠に人間の心を
満たすことのできない
この世の物を得ようとしたり、
追い求めたりせず、
むしろ人に与えることで
人間の心は満たされる
ことを悟りなさいと、
御言葉を通して教えてくださっています。
私たちも、
プレゼントされることも嬉しいですが、
誰かを思って何かしてあげた時、
相手が心から喜んでくれたら、
とても心が満たされます。
自分の人生を使って、
自分のためではなく、
沢山の人に有益を与えられることを
壮大に成してこそ、
初めて私たちの心は真に満たされるのです。
皆さんが、
自分の身体は神様がくださった
宝物なのだと理解して、
その身体を使って「愛」を与え合うことが
できるようになることを、
神様はどこまでも願っています。
「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者、よこしまな者から救ってください。」詩篇 43:1
終末の時代には、神様の力が大きく働き、
多くの悪人が、義人の切実な祈りの力によって
神様から裁かれて滅びていくことが
聖書で預言されています。
神様が愛して祝福の道へと
導こうとしている義人を、
苦しめたり妨害したりする悪人に対して、
神様は黙って何もせず見ている方ではありません。
神様が心から愛する人が、
周りの悪人に苦しめられていると
心から訴えて祈ってきたなら、
神様はその祈りに喜んで応えて
ことごとく悪人を滅ぼしてくださいます。
では神様は、私達人類全員の、
どんな人の祈りも聞いてくださるのかと言えば
そんなことはありません。
あくまで、平素から神様をどこまでも愛して、
神様のために全ての人生を捧げて生きていて、
いつも神様と愛しあっている人が祈ってこそ
その祈りが強力に叶えられるようになります。
私達も、見ず知らずの赤の他人から
助けを求められるよりも、
ずっと愛し合ってきた恋人から
助けを求められた時に
どこまでも力が湧いて、
その恋人を絶対に守りたい、
その恋人の願いを叶えてあげたいと
強く思うはずです。
神様にも心があり、
思いがあり、
考えがあります。
私達以上に、深く、広く、
想像を絶する知能を持っていらっしゃいます。
そんな神様の心情を常日頃から掴んで
神様と愛し合いながら生きている人は、
それこそ苦しい時の祈りだけでなく
自分の人生の願いまでもがことごとく
叶えられていくようになります。
自分の人生の願いまでも叶えて頂けるなら、
ましてその義人が苦しみ、訴えるなら、
なおさら神様がその義人のために
力をふるってくださらないわけがありません。
その義人が、喜びの中で
もっと神様を愛せるように、
神様は義人を苦しめる悪人に
恐ろしい裁きを加えて、
悪人がそれ以上悪さを行えないように
導いてくださいます。
神様に気に入られる人になって、
神様に沢山の願いを叶えてもらえる
人生を生きれる人は、
人間として産まれてきたことを心から喜び
感謝して、
毎日を大切に過ごすことができるようになります。
多くの人が神様に導かれ
神様に気に入られる義人となれますように。
「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」 ペトロの手紙一 5:7
神様はこの世の全ての万物を、
人間のためだけに、人間と愛し合うためだけに
創られました。
ですから
人間は元々この世のどんな被造物よりも、
神様が特別に思って、可愛がってくださるような
存在なのです。
そんな私達が神様の存在に気づくことなく
毎日を過ごすのを見て、
神様はとても寂しく悲しく思い、
いつになったら気づいてもらえるのかと
ほおづえをつきながら、人類1人1人を
じっと見つめていらっしゃいます。
そのような中で、
たった1人でも神様の存在に気づき
神様を意識するような人が現れたら、
神様は、「やっと自分に気づいてくれる人が
現れた!」と思って、
身を乗り出すようにして
その人に目を注がれるようになります。
ましてその人が、
自分が悩んでいることや
苦しんでいることを神様に打ち明けて、
神様にしか頼れないと言って泣いて祈るなら、
神様は心がギュッとなって
その人をもっと大切に思うようになって、
不可能のない神の力でどこまでも
守り導いてあげたいと思ってくださるように
なるのです。
自分の大切な子供が人生に迷い、泣きながら、
行くべき道を教えてほしいと
素直に訴えてくるなら、
その子が良い人生を歩めるように
どんな親でも自分の知っていることを
教えてあげたいと思い、導いてあげたいと思う
ものではないでしょうか。
神様も同じように、
素直に謙虚に祈り求めてくれる人に、
その人が本当に幸せになれる道へ
自然と導いてくださるようになります。
ですから私達人間は、
何か深く迷ったり悩んだりした時
全てを神様に相談し委ねて、
解決へと導いてもらうことのできる
特権を持った存在なのです。
この特権を使わずに生きて
自分であれこれと苦労することは
本当にもったいないことです。
信じて行っている人は、
この特権をどこまでも使って
自分の力だけで生きる人達をどんどん追い抜かし、
神様の力を頂きながら
神業を行うことができるようになります。
そうして気づけば誰も追いつくことのできない
次元まで上り詰めてしまいます。
神様の力を信じて
自分の人生を完全に神様に
委ねることのできる人は、
いずれ全ての思い煩いから解放されて
人々の前で明るい光を放つ存在へと
成長することができるでしょう。
「主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。」 詩篇 40:14
自分の身の上に、
自分でどんなに考えても
解決できないような問題や、
他人に簡単に頼れない問題が
降りかかることがあります。
今まではなんとか解決してきたことも、
悪が最もはびこる今の時代は
どんどん身の回りに災いが
降りかかるようになって、
自分の力では到底手に負えないような苦しみが
これから多くの人々を襲うことになります。
聖書の中で多くの義人達が
自分に力がないことを心から認めて、
自分は弱く、
塵芥の存在にすぎず、
虫けらにすぎないと言って、
神様に心からへりくだって
必死で救いを祈り求めています。
そうして神様に心から縋り付いた人は、
自分では到底想像もつかない方法で
様々な困難が解決していき、
さらには豊かな祝福が神様から与えられました。
自分の力で死にものぐるいで得てきた物の
何倍もの祝福を、
自分の力で得ようとせずとも
神様が自動的に与えてくださるようになるのです。
神様の力を信じて、
人間の弱さを認めて、
自分を捨てて神様に心から頼った人は、
「神様の力を信じた」ということで義とされて、
様々な問題を解決してもらえるだけでなく
神様がその人を豊かに祝福してくださって
想像を絶する喜びの中で生きられるように
導いてくださいます。
私達も、自分の力を信じて頼ってくれる人に、
もっと信じて頼ってほしいと思って
力を発揮するようになります。
ですが、
困っている相手が自分の力を信じてもくれず、
素直に頼ってもくれないなら、
せっかく自分なら解決できることなのに
手を貸す気もなくなって、
放っておくようになるはずです。
神様に不可能なことはありません。
私達の身の上に降りかかる問題など、
この宇宙を創り上げた神様からすれば
小さな石ころを拾うぐらいの容易いことなのです。
あとは、私達が神様の存在を信じて、
神様に頼ろうとするかしないかです。
私自身、自分にも他人にも
到底解決できないような苦しみを
何度となく解決へ導いて頂くことができましたし、
その度に神様は本当にいるんだ!と
どんどん思えるようになって、
今では誰かに相談するということが
ほとんどありません。
神様に相談すれば、全てがイチコロです。
何の心配もなくなります。
生きる上で降りかかる問題の全てを
解決に導いてもらえることが、
どれだけ幸せなことでしょうか。
これは、信じて行った人にだけ与えられる、
生きる上での最高の特権です。
皆さんの多くが、この特権を手にして、
全ての苦しみを神様と共に
乗り越えていけることを祈ります。
「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである」エフィソの信徒への手紙 1:13 -
私が、神様がこの世に確実に存在していると
確信した日から、
今でも神様が存在していると疑わずに
信仰を保つことができる最も大きな理由は、
毎日必ず、「聖霊」を受けることが
できるからです。
聖書にはこの「聖霊」という言葉が
沢山出てきます。
そして聖書の中で聖霊を受けた多くの人が
喜びに満ち溢れたり、
重い病が癒されたり、
力に満たされたり、
厳しい試練に何度も打ち勝ったり、
偉大な働きを成したりしています。
そして、この聖霊をもっと
分かりやすく表現するなら、
「神様の愛の波長」です。
私はこの「神様の愛の波長」を、
毎日のように祈りの中で強力に感じています。
聖霊を受けると、あまりの力強い愛に
感動が溢れて止まらなくなり、
身体が熱くなって、
涙が溢れます。
この聖霊を、祈るたびに毎日必ず
感じることができるからこそ、
神様が存在していると確信して
信仰を保つことができています。
以前は、病院のカードが財布に有り余るほど
何かと病院通いが多かったわたしが、
聖霊を毎日受けるようになってからというもの
一切病院に通うことがなくなりました。
どんなに疲れていても、聖霊を受けるだけで
身体が生き生きして、愛されているという喜びで
心が爆発して、もはやこの世の何もいらない
という次元に達します。
お給料が入るたびに服や遊びに
お金を使い果たしていた生活が、
今ではあまりに虚しいと感じるほどです。
無駄な物欲がなくなり、
人に対しての執着心がなくなり、
よく思われようと見栄をはる必要もなくなって、
人からどう思われるか、
人から愛されるかどうかは、
もはやどうでもよくなります。
私が今1番気にしていることは、
「神様が今の私をどう思っていらっしゃるのか」
です。
常に今の自分が
神様から見てどの次元なのかを考えることが、
生きる上で最優先になったのです。
そして神様が人間に求められていることは
ただ1つ。
「愛になる」ことです。
ですから、お金持ちになろうと努力したり、
モテようと努力したり、
人から認められようと努力したり、
成功しようと努力したりする必要が
一切ないのです。
神様にとってそんなことはどうでもいいのです。
そんな人を見ていても退屈するだけです。
神様が見ていて目を引かれる人は、
「自分を捨ててでも愛になろうとする人間」です。
愛を身につけるためにどこまでも努力し
神様に祈り求めて謙虚にすがりつく人に、
神様はどこまでも口説き落とされて
神様のその人への愛も爆発して、
祈りの中で豊かに神様の愛を
注ぎかけてくださいます。
お祈りの時間は
まさにお互いの愛が爆発し、
深く愛し合える瞬間です。
この瞬間があるからこそ、
私は神様を側に感じて
生きる喜びに毎日毎日満ち溢れて
毎日毎日感謝することができます。
まさに、天国です。
実は天国は、
気がつけば私達のすぐ側にあるのです。
信じるも信じないも、全てはあなた次第です。
全ては信じることから始まります。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 : 11 : 28
この世の人々は自分でも気づかないうちに、
あまりに沢山の重荷を背負って生きています。
重荷を背負うことが当たり前の世の中なので、
自分達がどれだけ沢山の荷物を抱えて生きている
かも分からなくなってしまっているほどです。
誰もが、見えない心の大荷物を抱えて
生きているのです。
ですから、周りを見渡せば誰もが心が重たく、
常に何かに追われ心の休まるところがありません。
忙しない世の中で、自分の心を少しでも癒そうと
様々な娯楽に手を出しても、癒されるのは束の間、
すぐに現実が心を襲い、出口のないトンネルを
歩くような生活に戻らなければなりません。
私もかつては、
そのような息苦しい毎日を過ごしていました。
ですが、神様と共に歩むようになり
自分には何も力がないことを知って、
自分の力で頑張ることをやめて
神様に全てを委ねるようになってから、
毎日生きているだけで神様の深い愛を心に感じて
どこまでも癒しと力を受けられるようになり、
今までの人生で1番忙しい
毎日を過ごしていますが、
今までの人生で1番元気に、
喜びと感謝と感動と力に満ち溢れて
生きることができるようになりました。
抱えていた全ての悩み、
苦しみ、
不安、
恐怖を、
ドサっと道端に投げ捨てて
どこまでも身軽に走ることが
できるようになったのです。
本当に毎日がどこまでも軽やかなのです。
神様と生きる人は
自分の力で生きる必要がなくなって、
むしろ自分の力以上の結果を
発揮できるようになってしまいます。
この奇跡を体験するには、まずは
「自分は弱い」「自分には何もできない」
という、自分が神様から見て虫けらのような
とても小さな存在なのだということを
認めなければなりません。
そうして
無駄なプライドを全て捨てることができれば、
私達が心に抱えている全ての重荷が消えて、
どこまでも毎日を生き生きと
全力で走れるようになれます。
だれでも荷物を抱えたままでは
全力疾走できません。
全力疾走できない人生は
いつまで経ってもゴールが見えないので、
いずれ途中で心も身体も疲れ果ててしまいます。
一日でも早く神様に出会って、
多くの人が心の重荷を捨てて
人生を全力疾走できるようになれますように。
「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」創世記 6:5
皆さんは
「地球上には、悪人よりも、善人の方が沢山いる」
と、思いますか?
それとも、悪人の方が多いと思いますか?
私はこの地球上で生きる善人は、
悪人に比べて遥かに少ないと思います。
なぜなら、どんなに良い人を装っていたとしても、
結局その人の心の思いが悪ならば
その人は悪人だからです。
悪人とは、ただ悪さばかりをする人
だけのことを言うのではありません。
心に、悪意や恨み、憎しみ、怒り、苛立ち、高慢、
嫉妬、怠惰、情欲、そのような感情を抱き、
その感情に従って行動したり言動したりするなら、
自分でも気づかないうちに
周りにいる人に悪影響を与えていたりします。
意図せず悪さをしていなくても、
自然と心の中の悪なる思いが
日常の行動や言動に現れるものです。
そして、心の清い人達が、
そのトゲのある行動や言動に
心を痛めてしまうのです。
そうして気がつくと心の清かった人までが
心の汚い人の影響を受けて、
悪なる人に変化してしまうこともあります。
カビを放っておくと、菌がどこまでも広がって
周りがカビだらけになってしまうように、
悪い考えが周りに及ぼす影響は
とても強いものです。
ですから、意図して悪を行うことも極悪ですが、
意図せずして悪を行なってしまうなら、
それもまた、どれだけ普段から心の中が
汚れきっているのかということに
ならないでしょうか。
毎日の習慣は、悪いことも良いことも、
ふとした時に自然と出てくるものです。
毎日悪い考えで脳を埋めている人は、
それが習慣になって、ふとした時に
悪い行動や言動を取ってしまっているのです。
そう考えると、私達人間はほとんどの人が
悪人だと言っても過言ではありません。
逆に心を常に清めるためには、
心の清い人から考えを学び、
心の清い人と共に過ごすことが1番です。
この世で1番心の清い人は誰なのかと言えば、
善と悪をハッキリと分かっていて、
自らが全てにおいて善を行い、善を人に
教えることができる人ではないでしょうか。
それを教えることができる人が誰なのかを
悟った人は幸いです。
そのような人は、
不法に満ち
悪口を言い合う汚れきったこの世の中で、
心の清さを保ち
人々の中で一層輝く人になれるでしょう。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 」マタイによる福音書 : 7 : 3
学校や、職場や、プライベートでも、
人間は誰かの気に入らない部分を探しては、
悪口を平気で言うことが
当たり前になってしまっています。
道を歩いていても、どこかのお店に入っても、
隣から聞こえてくる会話は、決まって
誰かの悪口や、愚痴、不平不満ばかりです。
誰も彼もが、「自分」の間違いに対しては
とても盲目なのです。
「自分」を常に大事に棚に上げておいて、
他人の間違いばかりに目がいきます。
そんなことをしていても何の解決にもならず、
何の成長にもならず、
同じことの繰り返しでしかないのに、
悪口を言うことが癖付いて
それが習慣になり
それが性格になってしまっているのです。
私達は誰にでも愚かな部分が必ずあります。
ですが、どうしても「自分」のことだけは
可愛がってしまうものです。
「自分」の愚かさに対しては
気づかないうちに目を塞いでしまうのです。
まずは1人1人が「自分」を変えること、
成長させることに目を向けたなら、
どんなに周りから嫌な思いを
させられることがあったとしても、
自分のレベルが上がっていけば
低いレベルの人の行いが小さく見えて、
何も気にならなくなります。
小学生が、小学生同士で争って辛い目にあって、
我慢ができないことがあっても、
自分が高校生になれば
小学生からどんなに嫌がらせをされても、
大した問題ではなくなります。
高校生は、小学生から嫌がらせを
されていることよりも、
自分がきちんとした大学生に
成長できるかどうかの方が大切なので、
小さなことでいちいち不平をこぼす
必要がありません。
まずは、自分の目の中の塵に気づいて、
自分自身が成長することに重きを置いて、
相手が何をしてこようと気にならないぐらいに
自分のレベルを上げていく生活を送ることを、
神様は人間1人1人に望まれています。
「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」」。 創世記 : 1 : 26
神様は、神様の姿にかたどって人間を造りました。
そして、私達人間のために地球を造り、
あらゆる種類の動物を造り、万物を造って、
これらを私達人間が支配し
統治するようにしてくださいました。
また、人間それぞれに様々な才能や個性を与えて、
その個性を使って仕事をしたり、
人生を楽しんだりできるように
導いてくださっています。
では、神様は一体全体、何の目的で人間を造り、
何の目的で人間のために
この地球と万物をお造りになられたのでしょうか。
また何の目的で、
私達それぞれに個性や才能を
与えてくださったのでしょうか。
それは、神様の愛する人間が、
地球で生きながら神様が造ってくださった
様々な物に満たされて恵を受けられるようにして、
また、神様から頂いた個性や才能を使って
神様への愛をさらに私達が示して、
神様と人間がそのようなギブアンドテイクの愛を
成せるようになるためなのです。
本来この地球は、見えない霊体である神と
肉体を持った人間が疎通し、
愛し合うために存在しているのです。
神様がこの世界を造った理由は、
それ以上でも、それ以下でもありません。
神様は、この世の何よりも人間を愛しています。
神様は愛の塊のような方なので、
とにかく愛を成すためだけに
天国で生きていらっしゃる方です。
人間と愛し合うためなら、
ご自身の全てを捧げていいと
思っていらっしゃるのです。
ですが、私達人類は、
神様の存在を知らず、
自分の産まれてきた意味を知らず、
生きている意味を知りません。
何も分からず、ただ欲望の赴くままに、
ただ生きています。
自分に与えられている全ての物は
自分の力で得てきたと思っているのです。
地球が造られる前から存在している神様は
何億年と人類の行いを見てきて、
人類が神様を愛さず、感謝もしないで生きる姿を
そのまま見逃すことはありません。
私達の生きている現代は、
聖書の中の終わりの時です。
神様に感謝をしない高慢な人間は、
必ず裁かれて痛い目を見ます。
そうして神様がいることに気づくことができる人は
本当に幸いです。
自分の生きている意味をはっきりと分かって、
何の不安も心配も恐れもなく
1日1日を生きることができるようになります。
自分が産まれて来た意味を確信して生きられる
喜びの毎日があなたに降り注がれますように。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」ヤコブの手紙:4:1
昔から人間同士の間では、
個人で争ったり、派閥で争ったり、
とにかく争いが絶えることがありません。
あまりにも争いが多いので、
もはや争い合うことが当たり前のようになって
人間同士生きていれば意見もぶつかって
争い合うものだし、
また戦争になって殺し合うことも
避けられないかのように考える人さえいます。
もちろん私達1人1人個性や才能が違ったり、
それぞれが違う生き方をしているので
意見がぶつかることはあるかもしれませんが、
「殺し合う」ほどの争いに発展するというのは
やはり異常なことです。
しかも、その戦争でいつも命を奪われるのは
争いとは直接関係のない庶民ばかりなのです。
戦争をすると決めた当の政治家達が命を失うことは
ほとんどありません。
私達は、政治家同士、国同士の争いを
終結させるための道具として
この世に産まれてきたのでしょうか。
私達の尊い命は、
一体何のためにあるのでしょうか。
私達は、一体何のために生きているのでしょうか。
争い合うためでしょうか。
自分がこの世で生きる意味を
本気で探し求めた人は、
自分が産まれてきた意味を知ることができるように
神様が必ず導いてくださいます。
自分の心の欲望を満たすために争い合うような
器の小さな人間にならないように、
自分の心を毎日見つめ直せる
1人1人になれますように。
イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 マルコによる福音書 : 12 : 29
聖書の中には、
「愛」という言葉が何度も何度も
これでもかと言うほど出てきます。
それだけ、神様は愛の塊のような方なのですが、
聖書には一切「自分を愛しなさい」
という言葉が出てきません。
自分を大切にしなさいとか、
自分を守りなさいということは
一切書かれていないのです。
むしろ、
「自分を捨ててついてきなさい」
と繰り返し書かれています。
つまり、1番に神様を愛し、
その次に人を愛して、
自分のことは二の次にしなさいということです。
自分を捨てて、
この世の何よりも神様を愛して、
その次に人を愛して、
「自分のことなどどうでもいい」と考えながら、
世界中の全人類が相手のために
生きる人生を送るなら、
この世の全ての争いや問題は、
きっと一気に解決するはずです。
聖書の中で神様がそのように
人間に勧めているのですから、
自分を捨てて誰かのために生きることこそが
人間にとっての幸せなのです。
現代は愛が冷め、
誰も彼もが「自分が良ければそれでいい」という、
自分中心の人生しか送ることができません。
1人でも多くの人が、
自分の利益よりも他人の利益を求める、
真実の愛を知ることができますように。
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」ペトロの手紙一 5:8
現代に産まれた私達は
何もかもが便利で、何をするにも簡単にできて、
いかに効率が良いか、
いかに楽をできるかばかりを
考えるようになってしまいました。
思考回路がそのように
常に「楽に、楽に」となってしまうと、
私達の行動も「楽に、楽に」となっていって
しまいには何をするにしてもめんどくさい、
と思うようになります。
そうして気づくと
昔はもっと勤勉だったのにとか、
昔はもっと働き者だったのにとか、
昔の自分と今の自分のレベルの違いに落胆して
後悔の念が募っていくのです。
考え方が怠惰なので、行動も怠惰になって、
見た目や言動にまで怠惰な自分の生活が
現れるようになってしまいます。
そうすると、その怠惰な匂いを嗅ぎつけて
悪魔や悪霊がその人の中に住み着いて、
さらに怠惰になるようにしたり、
怒りっぽくさせたり、
不安につきまとわれるようにさせたり、
鬱にさせたりしてしまいます。
悪魔や悪霊はこの地上をウロウロしながら
美味しそうな人間を探し回って、
住処(すみか)にしようとしています。
では、そのような悪魔や悪霊を
近づけさせないようにするには
どうすれば良いのでしょうか。
それは、
どこまでも気を張って、
常に勤勉な考えを持って、
常に自分がどうしたら人間として
成長できるのかを考えて、
毎日を必死に生きることです。
そのように、心の目を覚まして生きる人は、
必ず神様の目に止まって
悪魔や悪霊がしかけてくる全ての災いから
守ってくださいます。
人生を振り返った時、
過去の自分より今の自分に満足できる
後悔のない人生を送ることができるように、
私達が目を覚ましていられますように。
「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 」マタイによる福音書 : 18 : 12
時に、自分があまりにも惨めな気がしたり、
情けなく思ったり、
救いようのない人間だと思って、
自暴自棄してしまうことがあると思います。
中途半端なことばかりする自分に嫌気がさして、
どこまでも懸命に走っている人を見て
引け目を感じて、しまいには妬ましく思って、
気がつくと心がドロドロと
汚れていってしまいます。
そうして
自分はなんと心の汚れた人間
なのかと落ち込み、やる気をなくして、
自堕落な道へと進んで行くのです。
ですが、
「やはりこのままではいけない」
「自分を変えたい」
と思って、そこからなんとか
這い上がろうと努力しようとする人は、
神様がそのようにもがく人を
必ず見捨てることなく、
悔い改めて義に立ち返るのを
喜んで待っていてくださいます。
神様の愛する人間が、
もがきながら悔い改めて
立ち上がろうとしているのを、
神様は見逃すわけがありません。
むしろ、
すでに悔い改めることのできた人々をさしおいて、
悪から義に立ち返った1人のことを
どこまでも喜んでくださいます。
悪から離れて、神様の愛を信じて、
義を愛する人になれますように。
「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」 テモテへの手紙一 2:4
人は、自分が経験してきたこと、見てきたことで
考えが作られていきます。
そして、その生きてきた年数が長いほど、
やはり自分の考え方や考えのパターンが
癖になって、人からのアドバイスや、
人の意見を柔軟に受け入れることが
難しくなってしまいます。
自分ではある程度受け入れているつもりでも
実際は心のどこかで否定していたり、
スルーしていたりします。
そうして、心や考えに柔軟性がなくなっていって
深く物事を悟ることができなくなってしまいます。
逆に、子供の頃は考えが柔軟なので、
素直にアドバイスを聞き入れたり、
その意味を悟ることに限界がありません。
子供の成長が早いのは、
それだけ間違った考えや頑固な考えが
染み付いていないので、
どこまでも吸収してそれを
早く行動に生かすことができるからです。
とくに大人が嘘をついている時や
大人の汚い感情が、
子供の頃は不思議と読み取ることが
できなかったでしょうか?
それだけ考えが真っ直ぐだからこそ、
曲がった考えに敏感に反応できるのです。
ですが、汚い感情や間違った考え方をする
大人に囲まれて育っていくので、
次第に自分自身も心が汚れていってしまいます。
そんな私達が
また綺麗で真っ直ぐな心を取り戻すには、
まずは自分の考え方が本当に正しいのかどうかを
どこまでも確認しなければならないですし、
また間違った考えを見つけたなら
それを正しい考えに変えていく
努力をしていかなければなりません。
そのようなもがきの中で
私達は真っ直ぐな心(考え)を再び手に入れて
この世の中の話を聞くことができ、
その中で真実は何なのかを
見分けることができるようになります。
神様は私達人類全員が
真実にたどり着き、
真実を悟ることを望んでいらっしゃいます。
多くの人が真実へと導かれますように。
「もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。」 詩篇 : 7 : 13
神様は人間1人1人の全ての行いを、
炎のような目で毎日ご覧になっています。
聖書には、
「あなたがたの頭の毛までも、
みな数えられている。
(マタイによる福音書 : 10 : 30)」
とあります。
要するに神様は、私達の髪の毛が
何本生えているかさえ分かるぐらい、
精密に私達の全てを把握して
いらっしゃるということです。
自分でさえ到底分からないことまで
全てを見通していらっしゃるのです。
ですから、自分で悪いと気づいていない
悪なる考えや行いまで、神様は知っています。
まして私達が、「これは悪いことだ」と
認識していながらも、でもこれぐらいきっと
皆んなやってるだろうと思って
開き直っているのを見たら、
神様はそのような人には恐ろしい裁きを与えて、
「これからはそのままでは許されないぞ」と
分からせようとします。
そうして誰にも見られてはいないだろうと
高を括って、毎日平気で悪い考えや行いを
積み重ねている人には、ある時突然、
自分ではコントロールのしようがないほどの
苦しみがおそいかかったりします。
そうして、その苦しみを通して
悪なる行いを悔い改めさせようと
してくださるのです。
自分の身に恐ろしい裁きが下る前に、
自分の欠点を徹底的に見つめ直して、
常に謙虚に悔い改められる人を神様は愛して、
目をかけてくださいます。
さらには、どんなに罪があっても
心から悔い改める姿を見て、
祝福さえしてくださるのです。
悔い改めない人にはどこまでも
恐ろしい神様となりますが、
どこまでも悔い改めようとする人には
愛の神様であることが悟れるようになります。
もちろん信じるも信じないも、皆さんの自由です。
どうか私達1人1人が、
神様に愛されて、
心から悔い改めて毎日を
過ごせるようになることを祈ります。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 」コリントの信徒への手紙一 : 13 : 4
皆さんは「愛」と聞くと
何を想像するでしょうか。
世の中では、
恋人同士の愛や、家族との愛が一般的に
「愛」として括られていると思います。
ですが誰もが自分を中心に考えて
愛し合おうとするので、
時にその愛がお互いに全く噛み合わなかったり、
ウザったく思ったり、空回りしてしまったり、
重く感じるようになったりします。
なので、恋人の関係なんてこんなもんだ、
家族なんてこんなもんか、と妥協したり、
自分なりの愛を相手に押し付けてしまって
全く分かってもらえなかったり、
また自分が愛してほしいように
愛してもらえなかったりして、
不満ばかりが勝手に募っていくようになります。
何においても、自分中心的な
「不完全」な愛でしかお互いに
愛し合えないのです。
ですが、神様の愛はどこまでも「完全」です。
神様には、
「今日はすごく愛してる。」
「今日はあまり愛してない。」
という感情的な愛は一切ありません。
神様は、毎分毎秒太陽のように
常に燃えたぎる愛で、
私達をどこまでも愛してくださっています。
愛で優しくし、
愛で怒り、
愛で憐れみ、
愛で悲しみ、
愛で喜びます。
またその愛で、
全てを忍び、
全てを信じ、
全てを望み、
全てを耐える
(コリントの信徒への手紙一 : 13 : 7)のです。
神様が成される全ては、
愛が根元でしかありません。
人間のように、
「昨日は嫌いだったけど、今日は好き」
という不安定で自己中心的な浅い愛ではなく、
どんな時でも、人間1人1人と
深く愛し合っていたくて仕方のない
愛のかたまりのような方です。
神様の完全な愛を一度でも感じると、
この世の愛とはあまりに比べ物にならない
愛の深さで、もはや人間同士の愛が
あまりに浅くちっぽけなものに見えてしまいます。
あまりに虚しく思えてしまうようになります。
1人でも多くの人が神様の愛を早く感じられて、
自分中心な愛から抜け出せることを祈ります。
「悪しき者は自分の心の願いを誇り、むさぼる者は主をのろい、かつ捨てる。 悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。その思いに、すべて「神はない」という。 」詩篇 : 10 : 3
人間誰しも、
自分の曲げられない考えや自分のプライドを
必ず心の底に持ちながら生きています。
そして、その考え方を他人に
間違っていると指摘されたり
プライドを打ち砕かれることを嫌い、
むしろ自分の立場を優勢に守ろうとします。
自分の考えに頼り、
自分の考えこそが正しいと
心のどこかで思い込んでいるのです。
その考えが違っていたと気づいても
なかなかその考えを捨てきれません。
そうして、いつの間にか
自分の考えと違う人のことを見下していたり
他人の忠告を聞き入れられず頑なになって、
間違いや失敗を犯した時に
それを自分の責任ではなく
他人のせいにしたりするのです。
神様の存在を信じていたとしても、
いざ痛い目をみたり、神様から裁かれたりすると
それが自分のせいでそうなっているとは考えず、
全てを周りのせいにして、しまいには
神様のせいにするようになるのです。
神様がせっかく
その人の間違いや欠点に気づかせるために
様々なものを通して教えてくださっているのに、
なぜ自分にばかりこのような
悪いことが起こるのだろうと考えて、
他人が祝福されていることを嫉妬して
自暴自棄に陥ってしまいます。
そのように心から自分が悪いということを
認められずに足踏みし続ける人には、
さすがの神様もしびれを切らして
その人に愛の目を注ぐことさえされなくなって、
いつの間にか神様に見捨てられた人に
なってしまいます。
私達は自分に問題がある時こそ、
その問題を通して自分の欠点に気づき、
悔い改め、もっと成長できるチャンスなのです。
そのチャンスを足蹴にするなら
いずれ、どこまでも忍耐強い神様からも
見捨てられて、
愛も祝福も何もない人生を
生きるしかなくなってしまいます。
そうして
神様から愛されて祝福されている人を見て
泣いて歯噛みすることになってしまうでしょう。
私達1人1人が、どこまでも
忍耐強く待ってくださる神様の心情を悟り、
自分に欠点があると素直に認めて
謙虚に、神様の力をどこまでも求めて、
神様に喜ばれる人生を送れるようになれることを
心から祈ります。
「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 」ローマの信徒への手紙 : 5 : 3
私は、自分の身に悪いことが起きることを
異常に恐れてしまう時期がありました。
元々怖がりな性格ということもありましたが、
問題が何も起きないことこそが
幸せな人生だと思っていたからです。
ですが、100年間も生きていて
問題に合わないということの方が難しいですし、
むしろ神様は私達人間に様々な問題が
生じるように導くことがあります。
それは私達が憎いからではなく、
むしろその逆です。
私達が想像もつかないほど、
どこまでも、
神様は人間を愛おしく思って
くださっています。
また、1人1人を愛の眼差しで見つめながらも
同時に私達のあまりの愚かさや罪深さに
心をとても痛めているのです。
そして、何とか私達を成長させて
もっと幸せな人生を歩んで欲しいと思って
様々な問題や苦難の風を吹かせて
私達のどこに間違いがあるのか、
何が欠点なのか、
何に弱いのか、
その問題を通して気づかせたいのです。
よく、「ありのままでいい」
という言葉を耳にしますが
聖書には「ありのままでいい」とか、
「このままでいい」という言葉は
一切出てきません。
むしろ、
「悔い改めなさい」
「完全になりなさい」
と、何度も繰り返されます。
そのままでいてはいけない、
ありのままのあなたは悪でしかない。
神のようにどこまでも清く、正しく、忍耐強く、
憎しみ、高慢、怠惰、情欲、不品行を捨て、
完全になってこそ
私達は本当の幸せを感じられると
神様は伝えたいのです。
私達の欠点に気づかせて悔い改めさせるために
神様は問題を通して練達してくださるのです。
そうして問題が起こることを恐れるのではなく、
その問題から自分の欠点を探して
きちんと正そうとすることで
同じ過ちが起きないように意識して
さらに成長していくことができます。
そのように悔い改めた人を
神様は必ず喜んで祝福してくださるので、
練達を受けることで
もっと幸せな人生を歩んで行けると悟ります。
自分の身に起きている問題を
他人のせいにしたりせず、
自分に原因があると素直に認めて悔い改めて
さらに神様から喜ばれる人へと
導かれることを祈ります。
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 」マタイによる福音書 : 6 : 22
現代社会はありとあらゆる情報に溢れていて、
何が真実で、何が嘘なのか
全く分からなくなってしまっています。
人によっては情報に溺れ混乱し
真実を追い求める気さえなくなってしまい、
正しい情報を見分けられないまま
つまり何も分からないまま
問題を解決することができずにいると思います。
何を見ても複雑に見えて、
まるで目が濁ってしまって
何も見えないような状態になってしまいます。
そのような状態では、
いつまで経っても心がモヤモヤして
仕方がないはずです。
ですが、私達が一筋の真実を見つけて
その真実を軸にして様々なものを見通すなら、
何が本当で、何が偽りなのかが
よーく分かるようになります。
真実には、
「あれも真実だけど、これも真実」
という矛盾はありません。
真実はただ一つです。
そのたった一つの真実さえ分かってしまえば、
その真実をもとに全てのことが紐解けて
真っ直ぐな目で物事を捉えて
また判断することができるようになります。
濁って見えていたものが
どこまでもハッキリ透き通って見えて、
心までいきいきとしてきます。
人間は、分からないことがなくなって
全てを分かるようになってこそ、
様々な不安や心配や問題から
真に逃れることができます。
まずはこの世のたった一つの真実を知り
その真実をもとに全ての謎を解いて、
澄んだ目で物事を見ることができるようになって
全ての苦しみから解放された毎日を
多くの人が送れることを願います。
「絶えず祈りなさい。」 テサロニケの信徒への手紙一 5:17
私達は生きている間に、
様々な問題や悩みや試練に必ずぶつかります。
そのたびに、その問題を解決しようともがき、
人によっては自力で解決しようとしたり
人によっては信頼の置ける人に相談して
解決しようとします。ですが、
かえって問題が膨らんだり
やっと解決したと思ったら根本の部分では
全く解決していなかったり
解決するのにあまりに時間がかかって
手に負えなくなったりしてしまいます。
私達1人1人が歩む人生が全く違うように、
どんなに似た状況の問題でも、
その問題に関わる人も原因も違うので、
それぞれの問題に合ったやり方でしか
解決することはできないのです。
つまり、いくら誰かからアドバイスを受けたり
誰かにアドバイスをすることができても、
結局「根本」の問題を解決することまでは
できません。だから私達人間はいつも、
問題が起これば愚痴を言い、
悩んでは相談し、
その繰り返しの一生を送るしかありません。
一体いつそのループから抜け出せるのかと
心の中で次第に絶望してしまうのです。
ですが、
その問題の原因を神様が全て見通していて
神様に祈り求めれば、
人生で起こる全ての問題を
根本から解決してもらえるとしたら
それがどれほどの希望でしょうか。
その人は、どんな艱難困難も
神様に祈ることによって全てをことごとく
解決していき、また
神様は問題を解決してくださるだけでなく、
この世の全てを支配して、愛する人には
祝福も豊かに与えてくださるので、
まさに誰が見ても羨ましいと思う人生を
歩むしかありません。
祈りにはそのような、神の力が宿っています。
そして、求めれば必ず与えられるのです。
皆さんが神様の存在に一刻も早く気づいて、
「祈り」の力で全ての問題を解決していける人
となれますことを、心から祈ります。
「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 」マタイによる福音書 5:48
神様は私達人間を「神に似せて創造した」と
聖書に書かれています。
私達人間は、見た目も中身も、
本来は神様のように成長できるように
創られているのです。そして、聖書にはまた
”天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。”
とあります。つまり、神様は私達人間に
「神のように完全な次元へと成長しなさい」と、
聖書を通して教えてくださっています。
神のようなどこまでも清い心と、
神のようなどこまでも高い知能と、
神のように、どこまでも自分を犠牲にできる
深く熱い愛を持てる完全な者、つまり
「神」へと本当に成長できるのです。
逆に、生きている間に神様の存在に気づけず、
完全な者になる努力をしないまま
この世を去るなら、
肉体を失って霊となって天国に登る時
神様の住む天国に入っていくことが
できないのです。
ではどうすれば天国に入れるのか、
またどうすれば、この地上で生きながらも
まるで天国にいるような清い心を持てるのか。
その方法はきちんと聖書に書かれてあります。
この世の悪から抜け出して、
どこまでも心を清めたいと願う人、
神のように成長したいと願う人が、
沢山現れますように。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 」マタイによる福音書 7:7
私達日本人はともすると
自分に自信を持てなかったり
消極的になってしまったり、
謙遜であることが美徳で
自分から積極的に何かを提案し行動していくことは
美しくないことだと認識している人が
多いのではないでしょうか。
私も信仰を持つまではそのような
価値観を持っていました。
ですが、
神様の世界ではむしろ自暴自棄に陥ったり、
自分に自信をなくしたりして、
自分は何か大きなことを成すに値しない
などと考えて何も求めずにいることは、
罪にあたります。
なぜなら、神様はこの世の全てを創造し、
そして今もなお、唯一たった一人の神として
この世の全てを支配していて、
その不可能がない全知全能である神様の前で
何も求めないというのは
神様にはどんなことでもできるということが
信じられない証拠であり、
神様の偉大な力を侮っていることになるからです。
私達それぞれが持つ個性や才能は、
必ず誰かに必要とされています。
私達1人1人の個性才能は、
誰かが苦しみの中にいるとき、
誰かが絶望の中にいるとき、
その誰かを救うきっかけになることが
できるのです。そしてそのように
お互いにとって「心や命を救い合う」という
真の有益に使うために、
神様が個性や才能を与えてくださっています。
その個性才能を成長させるために
神様にどこまでも求める人は、
必ず、さらなる成長や力が与えられます。
消極的になって門をたたかない人は
いつまでも気づいてもらえず、
門の前で立往生するしかありません。ですが、
門を自らたたく人は、すぐさま家の主人が
気づいてやってきて、暖かい家の中で
様々な祝福に満たされて、
主人に使ってもらえる人になる
チャンスが与えられます。
どうか多くの人が神様に豊かに使われて、
積極的に世界を変える働きが
できる人となれますように。
「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。 」ゼファニヤ書 2:3
神様を心から愛して、神様の教えに従う人は、
自分が神様の教えから見て
いかに悪であるかを悟り、そして自分の考えを
どこまでも神様の考えに近づけようと努力し、
行動・言動を制し、死にものぐるいで
神様に近づくために毎日を生きようとします。
神様の前でどこまでもへり下り、沈黙し、
神様の言葉に対して、「然り然り、否、否」の
どちらかであろうとします。
それこそが真の謙遜であり、
そうして自分を捨てて神様の考えに近づくことで
神様と同じ愛で多くの命を救っていくこと
こそが真の正義です。
人に優しくしたり親切にすることは
誰でもできることで、むしろ
その人をただ甘やかすだけになってしまいます。
真の正義とは、神様から見て間違った考えや行いを
悔い改められるように導き、
神様にどこまでも愛される人へと
導いてあげることです。
さもなければ私達は、
悔い改めずに悪を行う者への神様の恐ろしい裁きに
巻き込まれてしまうことでしょう。
全人類が悔い改めへと導かれることを
心から願います。
「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 」ヨハネによる福音書 12:24 -
この世界では、自分がいかに成功するか、
自分がいかに栄えるかばかりを
求める人間ばかりですが、
世界のどこかで苦しむ誰かのために
自分の全てを捨てて
幸福な世界を作るために働くことができるなら、
自分を顧みずに生きる人を見た神様が
どこまでも喜ばれて、
私達が捨てたものの倍の祝福をくださいます。
それこそが、神様の望む愛の世界であり、
神様が住まれている天国のような世界です。
この地に神様が望む天国が成されますように。